テシゴトノアルジンセイ

最近、とても深く考え、深く欲する事がある。それは、手の事、仕事の事、働くという事についてだ。

手の心、それを人は掌(タナゴコロ)という。僕は手を使った仕事をしている。しかし、ただ手を使っている、というわけにはいかない。それはあくまで手段であるはずで、やはり心で、仕事というものはなされて来たのではなかっただろうか。僕は、優しい両の手の平(掌)が欲しいと想う。強く想う。果たして真実の優しい掌とはなんなのか。それについて最近よく考えさせられる日々が続いているのだ。

この前の休日は鎌倉に脚を運んだ。鎌倉ではポツリポツリと非常に良い(もちろん僕の判断だが)、健康的と言えるお店が点在している。そう多くのお店を知っているわけではないが、決して厭味ではない真摯な仕事ぶりを商品(雑貨、コーヒー、ジャム瓶、洋服、布など)、挨拶、表情から多分に感じるのだ。例えば、食べ歩きのメイン通りから一本、線路を渡った通りにあるジャム屋さん。そこはとても小さなお店だが、まずとても手の込んだ内装であり(良く気が届いているように感じた)、商品の陳列も心地よかった、そして何より嫉妬に似た感動を覚えたのが、そこには工房が併設されていて、そこでスタッフの方々がとても健康的な顔つきでせっせと働いている姿を見てしまったときだった。それで、きっとこの茶袋やコヨリでできたかわいらしい工夫された梱包も皆で決め、手作業で行われているんだろうなと想像させられてしまったのだ。一つ一つ丁寧に。そこで買った塩キャラメル、とてもおいしかった。

そのあと、小さなお店の小さなキッチンで、小さなおばさんが一人で丁寧な物言いと振る舞いをもって、てきぱきと働く自然食の食堂に出会った。二十品目にものぼろうかという小さく取り分けられた料理たちが、友達が作ってくれたみたいなタイプの大きな四角い陶器のお皿の上に行儀良く並べられていた。彩りも申し分なく、味などケチのつけようがなかった。まさしく僕は食べているといったような素材のうまさを、これでもかと舌の上に転がした。こんな風に“噛む事を忘れない料理”というのはとても大事な事のように思う。いつの間にかどれほど食べる行為を日用品化させているのかという哀しさが湧いてしまう。今でもその野菜たちの甘みが蘇る。このような仕事ができるというのはきっと心のある、掌仕事である。何よりそのお母さんの顔が、物腰が好きだった。やはり、顔が見えるというのはとても良い事だと少し嬉しくなった。御馳走様でした。

その日は、さらに「ヒミズ」という古谷実さん原作、園子温監督の映画を観た。かなり衝撃で、語っても語り尽くせないほどの感情を抱いたのだけれども、それはまた機会があれば書かせていただきたいと思う。本当にどの役者さんも嫉妬してしまうほどだった。染谷将太さんもよかった(彼のフアンになっても全然かまわない。彼の撮る写真も結構好きだったりするのだ)。二階堂ふみさんもよかった。よかったというのは稚拙かもしれないのだけどよかった。園さん、ああ、仕事してるな、と思った。これもまた仕事の姿で、正直に立ち向かって行く、向き合うという事も大事な仕事の要素のように感じた。

そしてもう一つ。先日観たあるドキュメンタリー番組のお話。その番組はある職種の、ある人物にフォーカスする番組で、その日は「管理栄養士の佐々木十美さん」だった。彼女は日本一の給食を作る人である。彼女は言っていた。「子供たちの味覚を育てるの。たくさんの味の思い出は、将来豊かな食生活を生むのよ。」彼女は一年で一度も同じ料理を出さないらしい。彼女は言う。「私は海や、山にも食材を探しに行きます。でも、山を登るなんて全然好きじゃないんです。ただ、仕事のため、子供たちのためとなると何も気にならなくなるんです。なんだってできちゃうんですよ。」そんな彼女の働きぶり、後輩への愛情のある指導を観ているうちに、ただ彼女の日常を垣間見ているに過ぎないのに涙が溢れ出ていた。いいなあ。こんな風に、こんな人のような仕事がしたいなあ。と、深く深く思わされた。その時部屋に充満していたのは心苦しさなどではなく、ただひたすらに悠久の時間を紡ぐ柔らかい光、それはきっと確信めいた新たな息吹が芽生えるのを密かに感じさせるものだった。

プロというものは何なのか、最後に彼女はその問いに、積年の笑い皺を携えたしっかりとした眼差しでこう言った。

信念を持って、自分でできる範囲内で、最大のことを一生懸命する。それが私にとってはプロなのかなあ。遊びや楽しみもプラスしなければいい仕事にならない。

それはまさしくkoko Mäntyのコンセプトだった。僕はもっともっとうまくなれるという事を忘れてはいけないと強く思った。今、僕らはいろんな人とつながって生きて行く事ができている。いつも会う人とも、まだ見ぬ人とも、必ず繋がっている。今一度自分の掌を視てみたい。関わっているのかではなく、関わろうとしているのか。この掌はただ大きいだけではない。いろんな事ができる。本物の仕事がしたい。掌仕事のある人生。

テト仕事。

みたいな感じで。。

それでは!

koko Mänty (kissa)       成重 松樹

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