ここにある、ある、確かにあるそれ

これは自宅近所の小学校(FUJICA Date)

今や選挙でもないと入り込めないので、しっかり撮っときました。

あの頃みていた、かんじていた運動場を思うと随分小さく感じてしまいます。

それは、都会の学校だから実際的に小さいのか、都会の学校が大きいから(母校は二階建て)小さく見えてしまうのか、ボクが実質的に大きくなったから小さく見えるのか、もしかしたら、ボクにとっての運動場の役回りが弱まってしまったからボク自身が小さくしてしまっているのかもしれない。遥かに身長を追い越した父が、今でも大きく見えることと同じなのかもしれない。

あの頃の運動場は、自己主張の場であり、自己演出の場であり、一切の落胆も背負わない可能性であった。しかし、いつからかそれは教育の施設的記号になり(高校では一切遊ばなかった)、今や学校というものに付随する象徴物になっている。含まれてきたものですら、関わり方のあり様で、このようにも意味みたいなものそのものが(歪んでいるとまでは言わないが)移り変わっている。

気付かぬうちに、多くがこのように立場を変えて自身と共に生きているのでしょう。そうすると、何か重大なものを置き去りにしてきてしまったような不安に駆られます。

樹の落とした影が、風に揺られる。みえない風の影によって。

ゲシュタルトを自ら崩壊させてみることは、あるいは危険を回避するのかもしれない。

みえない風の影を、しっかりみていたい。見逃さないように丁寧に。それがきっと大事なんだと思います。

ここにある、ある、確かにあるそれ。

koko Mänty (kissa)      成重松樹

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