ひらひらと床に落ちた

髪を切ることについて少し考察しました。

僕たちはまず少しお話をします。髪を切ることの準備、お互いの総体的なコンディションの確認です。そこでは季節のこと、ちょっとした社会での立ち位置、将来的な希望、旅行の予定、もちろん装いのことなどなどを絡めながら、あらゆる想定の上それは行われます。

そして、実際的な準備として僕らは髪をプレーンに近づけるため(日々の偶然性に平等を与えるため)シャンプーに取りかかります。これにはかなりの熱意が込められています。力加減、水圧だけではなく、その音(シャンプー音、水の音)、そして音そのものの強弱に全身全霊を傾けます。まるでクラシックを奏でる一大オーケストラのような気概。押し付けがましいほどの、伝えたい、という欲望。貪欲なシャンプー。

いよいよ、僕らは髪を切るのです。

あまりに儀式的になりすぎないように配慮しながら、そおっと必要な箇所を、必要なだけ丁寧にすくいあげます。

髪を切ることは、時には贖罪的行為になりうります。何かを忘れたい時や、新しい自分へのきっかけにする時などです。面白いことに、髪を切るという行為はそのような時には、そのものがうまく呼応していることに気付きます。

いかにわずかな長さを切ろうとも、必ずまずその髪の一番古い先端を切り落とすことになります。ひらひらと床に落ちた髪は、もっともその人と永く共にした仲です。人によっては5年も、10年も苦楽を共にしたと言えます。さらに面白いことに、床に落ちた髪は、先程までなんの苦もなく、その人自身として、同時に呼称、認識されていたのにも関わらず、にわかに“髪の毛”、別物として扱われてしまうということです。(これはある種のゲシュタルト崩壊)

僕らは、やはり結果を期待しています(大事なことです)。しかし、その掃かれていく髪の毛たちにも注視すべきなのかもしれません。床に舞い降りていく彼らのダンスにも、見過ごしがちな大事な意味があるはずです。

きっと、こう言った髪への留意が、まさしく“失恋で髪を切る”というような行為に趣いたのかもしれません。

物事に結果が及んだとき、必ず目に留まらないような何かが動いたと言えます。僕らはわかりやすい、モノの結果に囚われがちです。その全体を観ることによって初めて、そのもの自体の真意なるものがみえるのかもしれません。恋愛や、もてなされる料理や、家族や、歴史や、未来のことにも言えるはずです。

僕らは、自分のすべての歴史を込めて、日々更新される、その人や自分自身とも向き合いながら、丁寧にすくい、丁寧に切っていきます。

koko Mänty (kissa)             成重松樹

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