今はできることが少ないので、生活のためもあって、フリマアプリや写真集(zine)を買ってもらうことでなんとか生きていこうとしている。それで、この前の割と雨の強く降っていた日(先週末かな?)僕は、本屋さんに出荷するためのレターパックを買いにローソンに向かった。メガネにマスク、三つ編みの二つ結びにニット帽。四十前にして変なおじさんだけど、今はもうそれが当たり前になった。もうすぐフェイスガードも「フツウ」になるかもしれない。お昼前だったと思う(11:20ぐらいかな?)。まだランチに出てくる人も(最近は減ってはいるけど、やはり増える時間帯だ)いない。歩いているのはスーパーに出かけたであろう人たちだ。皆ほぼ一人だった。ビニール袋の人もいれば、持参のトートバックの人もいた。みんな買いだめと言った感じの膨らみ方をしている。
なんとなく、傘で顔が見えない、僕も歩きゆく人々も。
それもあってか、突然泣きそうになってしまった。
今はもう、嘘みたいだけど、1、2か月前とは別の世界にいる実感みたいなものを不意に感じてしまったからだ。本当に起きているんだ。今、すれ違った中年女性の頭の中は想像するしか手はないけれど、多分、少なくともコロナのことを考えてるスペースが頭の一部にあるんだな、って思うと、ああ、きっと、あの人もあの人もあの人もそうだ。同じ話題を共有しているのに、共有し合わないパラドックスの中で、まるで群体のように一つの思念みたいなものになって各々が動いている。もう戻れない”あの頃”の実感を捨てきれずに。それを知ると、途端に泣きそうになってしまったのだ。もう戻れないんだって。嘘みたいだ。もう戻れない、っていうのは、(確かにあったという)過去の実感がまさって初めて起こることなんだな(フィルム写真みたいだ)、とか、トトロのワンシーンみたいにビニール傘を雨が強く叩く音を聴きながら、雨の纏わりつく山手線が通過する音とともにぼーっと考えた。それでも僕以外の人生が今も進もうとしている。まさしく列車が運び続ける顔のない人生たちみたいに。雨粒の作る数多のクラウンが思い出されもせず弾けて消えていくみたいに。そういうのって、涙が出る。
koko Mänty (kissa) 成重 松樹