君の考える平和って何、と僕は聞かれた。

みなさま、こんにちは、ご無沙汰しております。もう一ヶ月も過ぎ去ってしまいましたが、2月18日〜3月11日まで、吉祥寺の「百年」さんにて“わたしが生きている世界はまるで球体です”という展示をさせていただきました。

とても多くの方々にお越しいただき、嬉しくて嬉しくて先週前歯が折れました(自慢の)。(クールに)折れた経緯はさておき、本当にみなさま、ありがとうございました。この場を借りては失礼かとは思いますが、感謝の気持ちを伝えさせてください。

“今”というものは次々と“過去”になり、途端に“今”が来て、“今”は果てしなく連続していき、おそらくそこにはいつも“未来”の気配が漂っている。そんな(パソコンのキーボードをタイプする)たった“今”もあれよあれよと“過去”へと流れていってしまうのには驚いてしまいます。その今をなんとか真実らしくあらわにしてくれるものの一つが、記録や記憶、つまり、写真や言葉なのかもしれません。それは、個人的な記録や記憶であったり、或いは、人類、この星、宇宙に至るものもあろうかと思いますが、そのあたりはまた別の機会に議論できればと思います。

とにかく今回の展示では、そのような写真と言葉を用いました。展示に何の意味があるの?かっこいいだけ?と様々な疑問はいつも付きまといます。おそらくほとんどの疑問が“yes”であり、もちろん“no”なのかもしれません(良くある応えですが)。極端のようにも聞こえますが、なんだか僕は、今回の展示も、髪を切ることも、花を愛でることも、ラッピングされたきれいなピンク色のお肉を買うことも“無意味”だと思っています。そして、それでいいのだとも。むしろ、さも重大な意味があるかのような振る舞いで、武器を売ろうとする時の支配者たちの方がよほど恐ろしいものです。本質的な意味が決められてはいないからこそ、僕たちはこれまで、相手を思いやり、物事を慈しみ、涙を流し、このうつくしい世界を感じて来れたのではないでしょうか?というのが僕個人の想いです。なぜならこのうつくしい世界を見ているのは私たち“自身”なのですから。

無意味だからこそ、完全に自由です。もし全てが運命によって決められているのだとすれば、それこそ僕たちは完全な自由なのです。

ある時に前歯が滑稽に生え揃って、そしてある時にそのユーモア(前歯)が折れるという運命が既に用意されていたものだとしても、僕はやはりこれまでも、これからも、変わらずに楽しくて仕方がないこの空想の大海原を馳せることができそうです。

何を見て、視て、観て、何を聞き、訊き、聴き、どのように生きるか。世界を変えるのはいつも私たち自身なのかもしれませんね。

まだ正式ではありませんが、来年もまた或る“何処か”で展示ができそうです。来年は一体どんな“今”でしょうか?とても楽しみです。またみなさまにご報告できればと思います。

本当に今回の展示に関わってくださった多くの方々に感謝しています。ありがとうございました。

追伸、母に先日、「あなたは一杯写真を撮りなさい。」と言われました(前歯損失後)。それではまた。

koko Mänty (kissa)  ~森へ~ 成重松樹 Matsuki Narishige

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