まめ大福、エベレスト、その全体を指す

“だる満”のまめ大福、淹れたてのコーヒーに、チャイコフスキーの“眠りの森の美女”。僕が眠くなりました。なにも格好をつけようと思っているわけではありません、全てが“あんこ”を美味しく食べるための“行い”です。大福のこのちょっと堅くなったガワがいい。

ちなみにだる満のお稲荷さんも食べました、美味しい。

昨日ふと、これまでふわふわと漂っていたモノゴトが、なんとなく、いまのところの“言葉”になりました。

僕はこれまで何かを選ぶ、行動を起こそうとする時、なるべく格好をつけてない方がいいなあ、と思ってきました。それは、だからといって、普通が一番かっこいいと言っているわけでもないように感じていたのです。と言うのも、それはそれで格好を付けてしまうことになってしまうのではないか、などと思ってみたり、面倒くさいですが、、

それで、その部分がとりあえず言葉になりました。というこなのです。

僕が求めているもの。どうやら、普通の中(と言うよりも、どこそこ)にある格好いいもの(拙い言葉選びですが、、)。

僕は格好いいもの、美しいものがとても好きです。そういうものを日頃観ようとすればおそらく、美術館や、ギャラリー、映画館に足を運ぶことが何よりでしょう。ただ毎日はなかなか行けないし、一分一秒の中でその欲求(格好いいものを美術館で観る)を満たすのは至極難しい。僕たちには生きるための仕事がある。でもやっぱり格好いいものを感じることはとても健康的にぞくぞくするものです。

だからなんですね、ヒトはなんだかんだモノを作るんです。いつでもそれを観ることができる。いつでもそれを感じることができる。そういう幸せに出合い続けるのが“つくること”には含まれていそうです。それで僕はこうも写真にとりつかれてしまったんだな、と思ったのです。僕は写真家でもなんでもないけれど、いつもの中にある気持ちいいもの、素敵なひかり、格好いいもの、それを見つけることができれば、いつ何処にいてもうきうきしちゃえるんだなということなのでした、僕の場合。だからというか、僕の撮るものは、特にコンセプチュアルではないし、かといってドキュメンタリーというものでもない、多分普通の中に“続いていくもの”を撮りたいんだろうなと思うのです。

髪を切るという今のお仕事もそうです。きっと人から人へと繋がっていく、人生のさりげない一部になれればいいなと思っています。無理なく続けていけること、それは人が人に優しくあることなのかもしれません。

まめ大福一つの幸福。エベレストはその頂を指すのではなく、その全体を指す。

koko Mänty (kissa)     成重松樹

  • Print
  • Facebook
  • Google Bookmarks
  • RSS
  • Tumblr
  • Twitter