日々、日常が繰り返されて行って、その前後を見失って、何処に生きているのか、今の今、それを感じ損なってしまうような、そういった不安が、まるでじわじわと短くなって行く日照時間と平行して、さらけ出された手先の冷えのように、曖昧に、しかし確実に、襲ってくる。とはいえ、一方では燻る炎が今か今かと次の薪を取り込もうとしている。
ぼうっとしていると、日々は駆け去ってしまう。日常そのものをルーティンと化すような振る舞いはやはり思い返す限り、記憶に留められなかった記憶であり、あまりに贅沢すぎる浪費に近い。そんなことはわかっているのに、念仏のように繰り返してみても、それそのものがルーティン化してしまい、哀しくも気付いている“ふり”になってしまっている。夜でも枯れぬ光を浴び続けているうちに、その一つ一つにいちいちの感嘆を損なって来てしまった。知っているのか知らないのかは、大事なことであって、しかしそれ以前に、興味を持つのかが大前提なんだと感じる。
今や人差し指一つで、絵画から絵画へ、写真から写真へ、音楽、ニュース、天気、あらゆる情報がコントロールでき、さらには参加できるようになった。これは歓迎すべき進化であると僕は思う。ただ、自律神経的普遍になってしまうのは少し不健康な気もする。モノゴトは便利(効率的)になって行く。それが例え道徳的に正しくとも、便利の裏には怠惰がくっついている。ここでは悪いということが言いたいのではなく、気付くかどうか。便利になればなるほど、同時的にある時点からの怠惰性は増している。怠惰と言うと語弊があるので、改めて言うと、消えた所作たち、継がれずに消えて行く記憶的所作たちのことだ。電話、テレヴィ、車、お箸や牛乳パックなどあまりに当たり前になった日常の風景、目に見えるものには目に見えない部分が遥かに含まれている。それが、僕たちが最近勢いを増して見失いつつある本当の“情報”なような気がする。五感がまず先立つのは当然だけど、日々崩れ往く資本社会の現実の中で、(クリーシェだけれども)六感目での解釈が、綿々と繋がる前や後ろや横の社会の強さ、日常の強さになるのではないだろうか。大根一つ扱ってみても物語は書けてしまうのだ。
と、云々よくわからないことを考えてみたのは、先日フォトラボの暗室を借りてカラー写真のプリントを体験したからなのです。あまりに儀式的な選択、所作を経て、ようやく一枚を決めてしまう行為に感動したのです。写真とは最初から最後まで決めてしまうのが写真なんだなと感じました。シャッターを押す前に画角、ピント、シャッタースピード、絞りとあらゆることを決めてその一枚を切り取るわけですが、なんと、現像時にも左右されるし(これは今回経験してません)、プリント紙に焼き付ける際も、ネガからプリント紙へのピント合わせ、画角合わせ、シアン、マゼンダ、イエローを基準に色の調節、その上での照射時間の設定で、仕上がりは大きく変わってきます。ごちゃごちゃと書きましたがとにかくいろんなことをするのです。ここまでを体験できたことで初めて、写真の持つ表現力の強さを知りました。そして、より僕を励ましてくれたのは、フォトショップの正当性。いつもアナログ思考な僕はとらわれてしまいがちなのですが、これはとても理にかなっているなと改めて感じました。
今あるものをすんなり受け入れる力もとても大事ですが、個人的にそのものの“情報”を手に入れる慶びもまた大切にしたいです。よりそれに寄り添えるような生き方。目に見えているものの目に見えていない部分を、また目に見えるものにするような反芻的再構築。作るものがそういうもので在れたらなと、そう感じたのです。
ついでに一つ。最近そういった表現を感じさせられるのが、ニューヨークの写真家ライアン・マッギンレー(注:裸などを含みます)。彼の表すユートピア性は、最早僕らが既に内包しているものなのかもしれない。(僕は、彼の写真を見ているとアニマル・コレクティヴが響き出す。)
長々と。。
koko Mänty (kissa) 成重 松樹