僕は昔、キャラメルのおまけにドキドキしていた

GR1s

四角ばかり。

これは不動前近辺のとある一角。手前が駐車場になっていて、おそらく古い建物が壊されてあらわになった、はみ出してはいけないと必死さを感じる場所だ。

普段の場所にフッとこういったものの存在に気付くことがある。それはカメラを持ち出し始めたころから顕著になったのではないかと、好印象に自分の行いを肯定している。画角や光の調節によってもちろん仕上がりの嬉しさは左右されてしまうのだけれど、なにより大事なのはそういった景色をなるべく見逃さない、心地よい経験と言ってもよいようなものの蓄積だと思っている。

それは例えば、よく晴れた運動場で疲れた体を休めるようにうつむきながら足を引きずり歩いていると(止めどなく目に流れてくる運動場の細かな小石たちの集合を無意識にみるともなくみている)、辺りが少し暗くなる。特に見上げることもなく、一瞬の中に、雲が太陽を覆ったことを疑いようも無く感じる。そしてその認識はひらめきのような速度でどこかに行ってしまう。その一瞬には風も感じたはずだ。雲は風で流れることを知っているからだ。不思議と肌にも風を感じたような気がする。まさしく知識であり経験なのであろう。経験則から来る、そういう一瞬を彩るタイプのものがある。それはなんだか心地よいタイプなのだ。

そいったタイプの経験の蓄積というものが何かを生み出すというわけではないのかもしれないけれど、やはり豊かになれる。豊かに生きることは人生を別の目線からみる良いチャンスのように思うのだ。

僕は昔、キャラメルのおまけにドキドキしていた。

ポケット一杯に詰めたくて。

koko Mänty (kissa)              成重松樹

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