可能性は常に未来に

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こうやってみると木肌ってすごいですね。稚拙だけれどもそう思います。一体これが、日々の更新の中でどうやって形作られていくのでしょうか。伸びるし、太くなっていく。その中でこの木肌のパターンはいつ決まっていくのでしょう。これは結構不思議。年輪や葉脈なんかはよくとらわれて来たけど、ちょっと木肌は考えてなかったなぁ。

そもそも樹全体を捉えるのは結構難しい。スケールの問題も時にはあるし、根そのものが土に埋まってしまっているという致命的宿命もある。土をウマく細部の根まで生かしながら取り除いて、遠くから見るとしても少々強引で日常性に欠けてしまう。しかし、最大の理由は、僕たち自身による個体差の認識なんじゃないかなって思う。ご神木だとかはまた別なのだが、やはり樹を見る時に固有名詞的知覚はしてないんだと思う(もちろん実際そうなのだけど)。“みる”というのはいろんな漢字があるようにあらゆる見方がある。それを僕たちは無意識下で日々使い分けているのだろう。

それは当然生きやすくするためなんだろうけど、油断していると少し危険なんじゃないだろうか。しかし同時に、意識できるときがあれば結構モノゴトが幸福に満たせるんじゃないかとも思う。例えば、恋人のこと、食事のこと、読書や仕事や旅行のこと。“みる”目を変えればあらゆる可能性が漂っている。もちろん悪い可能性もあるが、その“みる”目も変えてしまえばいい。可能性は常に未来にあるものなのだから変えてしまえばいいのだ。そうすれば世界も違ってみえる。案外世界は自分で変えられる。

日常を通り過ぎていく“みる”という行為の中で、僕は毎月何人もの人を、観たり、視たり、診たりすることができる。これはちょっと結構な幸せだぞ、という話でした。

いつも皆様ありがとうございます。

koko Mänty (kissa)         成重松樹

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