遥か昔、かの彼が見付けたもの

色を失っても(実際には二色のさじ加減だが)、そこに鮮やかな(まさに生きている)朱ともとれる赤を認めることができる。当然経験からくるものが多分だが、それは想像力だ。

それは群青でもいいし、緑でも、山吹色でもいい。

ボクが、赤だと主張すれば、当然赤いのだが、この場合は、何色でもいい。

ココで大事なのは、鳥達が一斉に見上げるその視線の在処だ。【ココにはなにもそのヒントになるものは、ほとんどないと言ってもよい。おそらくは野外であるとかそういう些細なことしか写し出されていない。そして、手前には網がある。それだって囲っているとは限らない。もしかして、ボクが“現地”に行って、サファリカーみたいなものに宿命的にはめ込まれた網(猛獣よけの)越しに撮った一枚かもしれない。】

その目線の先には何があるのだろう。

そこには、ヘリコプターが飛んでいたのかもしれないし、遠く故郷を眺めているのかもしれない。あるいは、午後の通過儀礼なのかもしれない(そうしないとエサが貰えないとか)。

白黒で捉える世界は、あまりに広がりをみせて面白い。

僕たちの捉えれる世界というのは、もしかしたら、このような一枚の白黒写真のようなものなのかもしれない。

囚われてしまえば、それは写真のうちに収まるし(彩色作業も忘れてはならない)、しかし、同時に、その写真の枠を超えた世界は恐ろしく自由が漂っているように思えるのだ。僕たちは、この“写真”をどう捉えても良いのだ。

夕闇の中すれ違った、番いのような、飼い主と可愛いセーターを着たワンちゃん。おじさんは素敵な眼鏡をしていて(特別な眼鏡という訳ではない)、クリーニング屋の亭主と言われても、イタリア小料理店の亭主だと言われても信用できるような、そういったタイプの小気味いい感じの人だった(そういった意味で素敵な眼鏡なのだ)。そして、大事なのはわんちゃんがあまりに可愛い柄のセーターを着ていたということだ。縁取られた起毛のファーみたいなものはいささか好みではないが、とにかく柄が素敵だった。

今日はそういうことを見逃さずに生きれたのだ。とても良い一日だった。

遥か昔、かの彼が見付けたもの。

“YES”

koko Mänty (kissa)                         成重松樹

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