成重松樹+きくちゆみこ展『わたしがぜんぶ思い出してあげる/あなたがぜんぶ思い出してくれる』

こういう風に文章を書き始めるということはあるのでしょうか?いや、あるでしょうね。ここで書かれているのはBlogなわけですから、“Blog的”でいいわけです。つまりこう書き始めたいわけです。「かめはめ波、出そうとしたことありますか?」

偏見的ではありますが、おそらくほとんどの方があるのではないかと思っています。つまり“かめはめ波”的な何か、を。波動拳でもいいし、舞空術でも、テクマクマヤコンでもいい。とにかく、それらを叶えようとしたことはあるんじゃないでしょうか。とんでもない集中力を持って。まるで、キキがデッキブラシに跨って飛行船に向かったときのように。

どうでしょう?かめはめ波は出ましたか?箒で空は舞えましたか?僕は一応、できなかった、ということになっている。そのときは、もう少しお兄さんになれば、できるはずと思っていたように思い出されます。高学年になれば必ず、と。でも、“忘れて”しまっていた。かめはめ波を出すことを、怠ってしまっていました。そもそも、かめはめ波そのもののことも忘れてしまっていました。しかし、なんだか不思議なことに、忘れてはいるのに覚えてもいる。この“記憶”はどこにあるものなのでしょうか?考えれば考えるほど、行き先不明な思考の迷路へと迷い込んでしまいます。

89年、ベルリンの壁が崩壊されました。世界の転換点となった年です。その頃、僕は小学一年生ぐらいだったでしょうか?やはり大ニュースだったからでしょう、なぜかその映像を教室でも観た記憶があります。僕のベルリンの壁は、教室の天井から吊るされたブラウン管の中で壊されていました。正直、事実とは裏腹に、子供の僕には何か怖いもののように感じていたように思い出されます。でも、すべては、“確か”ではない。今、かめはめ波から、ここまでを“思い出し”ました。忘れてはいたけれど、思い出すことはできる。忘れていたれけど、失ってしまったわけではない。忘れていたからこそ、思い出すことができる。ただ、部分的に損なわれたり、加筆修正されてしまっていることもあるかもしれませんが。まるで、ある種の数列の規則性のように一つ飛ばしの数字が影響し合ったり、あるいは細胞のように隣り合う細胞が相互に補完しあい、それぞれの細胞の役割を決めていくように、記憶は単に保管されているのではなく、一方では作ら続けているのかもしれません。それは、辻褄が合うように、僕が僕であり続けるように、記憶という機能の重要な振る舞いなのかもしれません。もしかしたら、僕は、低学年までかめはめ波を出していたかもしれない、でも、忘れてしまった、修正されてしまった、辻褄合わせのために。誰かが言っていました、もし僕が今、かめはめ波を出せる側の人間だったら、まるで宝くじで突然6億円を当ててしまった人と同じような人生を歩んでしまうかもしれない、と。

僕が(僕が、僕が、と、14歳のようにうるさいですが、、)、僕であると言えるのは、昨日まで(さっきまで)の記憶が頼みの綱です。もし、そうではなかった(僕ではなかった)としても、今のこの記憶をごっそり与えられてしまえば、僕はやはり、僕を僕だと思うでしょう。そして、もう一つ重要なのが、浦沢直樹さんの漫画「MONSTER」の主題にもなっていますが、僕を僕だと知っている、“他人”が居ること。これは、とても重要なことです。他人が、僕を“思い出して”くれるからこそ、僕は僕で在れるのです。

なにやら、面倒なことを書きしたためましたが、ここまでは前振りです。。

実は、こちらでのお知らせが遅くなってしまったのですが、2月17日(水)から29日(月)まで、名古屋の(素敵な)本屋さん「ON READING」さんにて、「成重松樹+きくちゆみこ わたしがぜんぶ思い出してあげる/あなたがぜんぶ思い出してくれる」展を催します。つまり、主題は『記憶』にまつわるものなのです。記憶に最も密接なものの一部でもある、写真と言葉を使って展開していきます。お近くの方、または、近くに出張、旅行等のご予定のある方は、是非(こぞって)足をお運びいただければと思います。本当に素敵な展示になると思っています、我ながら。その場所、その時間でのみ発露させられてしまうような不思議な現しがあると思います。今回がそうだと思うのです、まだ展示していませんが。。あなたが見てくれれば完成です。成功です。よろしくお願いします。

自分の辛かったり、幸せだった記憶を思い出す。その事実は思い出せるのだけれど、厳密にはその高揚感はどうしても減衰していて、いつまでもその思い出だけで生きて行くことはどうやらできなさそうだ。でも、他人の記憶は、また少し違う。例えば、友だちから、こんな辛いことがあったんだよ、とか、ひどいニュースや、感動的なドキュメンタリーに、映画、あるいは、クラシック音楽に、芸術たち、それらに触れた時、聞いた(見た)その時、(少し前だったり、かなり古い記憶であるにも関わらず)僕たちはその場で感情を強く揺さぶられる、まるで僕自身がたった今、体験した記憶であるかのように。他人の記憶を思い出すことは、自分の体験になるし、何より、相手の存在をより強くすることができる。少し大げさな言い方になるけれど、相手をこの世界に強く引き留めておくことができる。そして、それは僕の記憶にもなる。記憶はこのように言葉や映像、音を(つまり波動を)媒介にしてあらゆる人の頭の中を自由に行き来できる。とても自由でお茶目で、時に意地悪な存在でもある。その記憶は、わたしだけのものではない、あなただけのものではない、安心していい、みんなのものだ。あなたが今望んでいる、例えば、うつくしいものは、大丈夫、みんなが望んでいる。僕は、そのように世界を見ている。僕たちは、かめはめ波を出そうとした。できないからではない、できるかもしれないと思ったからだ。もう一度、望む世界を見ようと思う。今度は最後まで諦めない。ピース。

これはみんなのものだよ、みんなの鳥だ

わたしの分もある、きみの分もある

~きくちゆみこ~

koko Mänty (kissa) ~森から~  成重松樹 Matsuki Narishige

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