今回の展示では、「記憶」をテーマにしています。言葉に、写真に、ひと、もの、こと。わたしたちは、毎日、朝起きて、いろんなことを思い出しています。目が覚めて、わたしがわたしであること、隣に寝ている人が“あなた”であること。たとえば、何か朝の特別な呼吸法を取り入れている人は、そのことを思い出す。まず、歯を磨く人、白湯を飲む人、新聞を取りに行く人。そのようにして、毎日、自分が自分であることを思い出しています。会社に行けば、「◯◯さん、おはよう」だとか、デスクトップを起ち上げれば、「◯◯様 お世話になっております。△△の××です。」だとか、誰かがわたしを思い出してくれる。そして、また、わたしは“あなた”を思い出す。すごく単純な物言いになるけれど、だからこそ、何ひとつ、誰ひとり欠くことは出来ない。この世界が、この世界であることを思い出す。
僕たちは、たったひとりで、この世界のすべてを見たり、すべてを知ったり、すべてを感じたりすることは、どうやら難しそうです。でも、“あなた”がいる、みんながいる。
この世界はそれぞれの思い出が集まって、寄り添って成り立っているのかもしれません。「思い出す」という行為は、一度起こってしまったことを、どこかに大切に保管して、もう一度呼び戻すような、そのような行為に思えます。前出のインタビューリンク先にも、きくちゆみこが言及しているのですが、つまりそれは創造するということ。思い出すとは、たぶん、僕の内側のいろいろなフィルターを通って、なにやら微細な余計なものを含んだり、結構大事な部分をこそげとられたりしながらも、どこかに辿り着き、またこちらに顔を出す、でもなんだかちょっと違う、のだけれど、そうそうまあそんな感じ、というようなことなのかもしれません。まるで、潮の満ち干のような、月の満ち欠けのような、緩やかに移りゆく毎日の僕らの変化みたいですね、昨日と同じようだけど同じではない。
きっと、それは優しい出来事なのです。それは許される行為、そして、それは許す行為でもある。余計なものがくっついたり、大事なものがなくなったりして、事実とは異なるのかもしれないけれど、きっとそれでいいのです。そのように少しずつズレて行ってしまうのが、おそらく生きて行くということ。そして、この“世界”は許してくれる。それが、今、僕たちが生きている世界。
だと、いいなあ、と思っているわけです。
あなたを知ること、わたしを知ること、お互いに少しだけ違う何かがある、それがきっとこの世界の豊かさを生むのでしょう。だから、見てみてほしい。見て思い出してほしい。忘れてもいい、全然平気で忘れてもいい、思い出せばいいのだから。
忘れたあとには、何が来るのか。ぜひ足をお運びいただければと思います。
展示はいつもその期間だけのいのちです。ちょっと覗いてみてもいい感じ(←ここはEAST END×YURI)かも知れません(YO)。