日と火と人々

通り過ぎようとする夏。もうすでにそのいくつかは通り過ぎて行ったのかもしれない。それは毎年毎年飽きもせずに繰り返されていく。その中で、僕らは生きている。その中に絶景を見出しながら。

僕らは、いつだって自然の織り成す光やリズムに、酔いしれ、感嘆の息を漏らし、時には絶望すら感じてしまう。僕の手にも及ばないと嫉妬する間もないほどに。

しかし、自然は何も着飾っているわけではない。ただあるだけ、ただそこにあるのだ。つまりは、それに感情を震わす僕らヒトビトこそが最も美しいものそのものなのかもしれない。ヒトも景色もやはり鏡なのだろう。

世の中には隠された多くの景色、カタチ、情感がある。僕らは日々それらをなんとなくの中で(時間的にも)通り過ぎてしまう。いつもの通い慣れた道であろうとも、一生みることのない景色や色、事物がある。もちろんそれは当然なのかもしれない。しかし、その中に感じる、何か人生を変えてしまうというような期待感が、僕の心の中をピカピカと揺さぶるのだ。

それで、光やその日、その時の感情すら利用して、僕は閉じ込めておく。例えば、カメラで。それは、僕の目に捉えられない光を、通り過ぎるラインを提供してくれる。常にそこには期待を裏切る付加価値が及ぶ。もしかしたらそれは、一生交錯しない平行世界のようなものに近いのかもしれない。世界に隠された数多のもの。僕は生きているのだ。そこにいた、確実にそこにいた自分が在る。カメラの写し出す描写の裏には僕がいるのだ。真実の世界を覗き込むように、自分自身の一生分が一瞬のうちに回顧され、遂にはあらゆる時間が同時に来るような開放感を得る。そこにニュートラルな可能性を感じる。

誰かが言った。

西瓜が燃えている。

日と火と人々。通り過ぎて行く夏。

koko Mänty (kissa)               成重松樹

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