白いものが天上から下ってくる。
とても神秘的で、その静けさは絶叫的でもある。
今日のblogはなんだか排他的になってしまいそうです。
じわじわと染み込んでくるタイプの寒さ。それが雪の降る夜なのでしょう。あたりはお決まりのように静まりかえり、まるで田舎の完全に星明かりに頼る夜のよう。そこにはかならず、野性的暗闇と心霊的暗闇を感じてしまいます。ボクにはどうしても心臓を高鳴らせなくてはならない路地が二つあったことを思い出しました。その畏敬の念とも言うべき恐怖は、今持つ数少ない強さの一つになっている気がします。
類いの総数を計ることはできませんが、おおよそ目に見えない、つまり想像力に含まれるものが多分だと思うのです。そして幸せもその中にあったりする。
今日とても哀しいコトがありました。(これは本当に自分の内で起こったこと)
とても蒼く、アオイカナシミ。
白い雪が、空のネズミ色からグラデーションに、
気付けば目の前におり続けた。
生命は、死を持って生きている。死を取り込んで生きている。
食してしまおうかと思う、メタファーではなく。
まるで、オノ・ヨーコの「グレープフルーツジュース」を燃やすように。
でも、実際には、ボクにオノ・ヨーコの「グレープフルーツジュース」を燃やす気概も、食す気概もない。
もちろんそれは、ボクらしくボクなのでキライではない。ただ厭なだけだ。
ボクは一日悩んで、やはり全てを埋めてしまうことにした。必ず食事のように。
目に見えないタイプの現実みたいなものに、真っ直ぐ向き合うことが、なにか「食事」である気がするのだ。
「笑って食べることが、最低のマナー。」奥深い。フランスのドミニクおじさんの言葉だ。
よく日本語は美しい言われます。しかし、それは単純に、それを選び抜き、美しいと思う、その人の心の内が美しいのだと、ボクは思うのです。
世界は自分の内に在る。
ボクも、世界で活かし生かして生きることだと、今日固く決意しました。ただ、関わってそこに居たくないだけの自分があるようで、厭になってしまったのです。ボクはあの時の少女にも感謝が足りなかった。ジョゼへの思い至りが足りなかったように。海への感謝。
そしてここからはかなりハッピーなお話。
今日、去年暮れに参加させていただいたvacantでのよまむのテーブルで知り合ったM様がいらして下さいました。ボタンデザインやぬいぐるみ制作などをしてらして、いくつか作品を見せていただきましたが、実に嫉妬。なんだかやる気がみなぎりました。今日はわざわざ雪の中をお越し下さいましてありがとうございました。
本当にこうして、繋がっていくっていうのはとても素敵です。
彼女の展示もkoko Mäntyで実現するかもしれません。皆様、楽しみにしてください。
それでは、また。