わたしのからだは、わたしのもの。


結局ステートメントは読んでもらえなかった。
確かに“彼”が言う通り、何も言われなくても、“何か”を感じられるかどうかは、その作品の生命線のようなものだと思う。別に、その感じられるものが、作家の思惑(つまりステートメントとして書かれていること)と同じであることは、最早重要ではないと僕は考えている。現代アートと呼ばれる代物は、ますますコンセプチュアル性を高め(いや、もともとかもしれないが)、あらゆる体系、体制をとるようになり、そして、認められるようになってきた。
しかし、時に、“認められている”作品というよりも、“認められている作家”の作品は、“ステートメントを読まないで”感じると言うことが本当に叶っているのだろうか。少なくとも僕の力の限りでは、そううまくいかないことが多いように思う。もちろん、作家や作品、美術界の時代的前後の文脈や、社会的立ち位置等、兎にも角にも知識の欠如がそれを助けているのは僕自身の問題でもあるのだけど。
何れにせよ、読んでもらえないならば、感じてもらえないならば、伝えてゆけばよい。そんなふうに考えるようになった。あとから、“ああ言えば良かった”ということがよくある。
ならば、あとからでも言えば良いのだ。手紙でも、今ならSNSでも、いくらだって言えば良い。
それで、これから、ここにこの写真の説明を添えようと思う。日本語でしか綴れないのは残念だけれども、小澤征爾の数多の書籍に囲まれた美術館付きのカフェ(サザコーヒー)で、書けることを書いてみようと思う。(ここのコーヒーは本当に美味しい)
まず、件の若い学芸員に「これだとミックスメディアなんだよなぁ」とぼそっとつぶやかれたのだけれども(ボリュームは決して届かないようにはしていないし、かと言って対話を望む活き活きとした響きはない)、彼は当然ステートメントを読んでいないので、それを動機に書き始めてみる。
これは二重露光であり、メディアはフィルムに印画紙、つまり典型的な写真であり、何もミックスなどしていない。そもそもミックスメディアだと何処に問題が生じるのだろうか。写真ではない、ということなのだろうか。そもそも、このレビューしてもらうという企画は「踏み出せ!」みたいなタイトルだったけど、これではむしろ「踏み込め!」みたいな心地がしてしまう。
まるで、業界的指針で写真を計られ、まるで、ここに相応しくない、あるいは、現代写真も現代美術もあなたのような“高卒”では難しい、アカデミックさがいかに必要か警笛を鳴らされたような心地だ(幾分、僕自身のコンプレックスが強すぎるのかもしれない)。君は今風(インスタ風)のスナップを撮って楽しんでいなさい。そんなふうに感じてしまった。でもね、勘違いしないでほしいんだ。僕はあなたと、写真、いや、イメージを共有しに来たのだ。この写真がどんなに楽しくて、ここからこういうことも考えていけるね、この作品だとあの人のあの作品とつながりを見つけられそうだから、その辺りを勉強してみるといいかもね、とか、そんな話ができるんだと思っていた。それこそ本当にアカデミックで写真好きな人と写真の話ができるなんてきっと楽しいだろうなあ、と。
話が冗長になってしまったが、この写真はまず、絵を描いて、それを顕微鏡で拡大し、フィルムで撮影する(もちろん美しいそれを見つけて)。36枚の撮影が終わると、フィルムを巻き取り、今一度スタートを合わせ、今度は“日常”を撮る。顕微鏡写真はいちいちそのおおよその模様(色や形)をスケッチし、露出等を細かくノートにメモして、その情報を照らし合わせながら(念頭に置きながら)日常を撮る(とてもスローな撮影になる)こともあるし、身体的に軽やかなステップでそこに(既に)何が撮られているのかを意識せずに臨むこともある。どちらの場合でも、どちらにも起こってしまうこと、それは全てが一回性の中にあるということだ。どれだけ光の温度も照度も変わらない静物であっても、多重露光であるがゆえに唯一性を帯びることになる。そのことは、本来そのようなことはいつもそうであることを知ることとなった(決して二重露光でなくてもという意味で)。
森は、変わらないように見えて、あらゆる生命が刻一刻と生き絶え、それがまた糧となり、いつも劇的に新しい。一瞬たりとも同じ森はない(我々もそうだ)。一本の樹に近づいた時、そこには森を見ているだけでは目に留まらなかった生命、ドラマ、色たちに気がつくことになる(この写真もそうだ)。ミクロの世界は(マクロの世界も)確かに肉眼で確認するのは難しい。でも、その世界は確実にここ、そこに在るのだ。だから思い出して欲しい。この世界をつくっているものは、目に見えていることばかりではない。“日常”も“ミクロ”も“マクロ”も、この世界をつくっている一部なのだということを。それらが僕たちの“世界”と呼ばれるものだ。その働きをこの二重露光に、僕は期待しているのかもしれない。
内藤礼さんは、「おいで」と言った。
きくち ゆみこは、「いいよ」と言った。
どちらも目には見えないが、全てがここにあるんだよ。
僕たちは学んでゆく。
何度も何度も繰り返すエチュード。
アクリリックスタディズには、そのような意志が働いている
大丈夫、きっとすべて うまくゆく。

koko Mänty (kissa) ~森へ~ 成重 松樹 matsuki Narishige

  • Print
  • Facebook
  • Google Bookmarks
  • RSS
  • Tumblr
  • Twitter