かの氷河の意味を持って

氷河が崩れ堕ちる映像を見て、僕は子供の時から、不安だった。

それはテレヴィジョンの中の人が僕に、途方もない時間がそれを形成したことを伝えたからだ。それほどまでの時間の結晶物がいとも簡単に、あのような巨大な音をたて、一瞬のうちに海中へと消えていくのだから、僕はもう「間に合わない」と思った。確実に今年中にはなくなってしまうと思ったのだ。何か途方もない強大な力を感じたものだ。それは、今この瞬間にもどこかの海でクジラが宙を舞っていることの感覚に近い。

写真は、石川県は金沢の日本三大庭園の一つでもある兼六園の或る茶屋の流し。こういう景色が残っているだけでもなんだか安心します。現代のシステマチックな住宅とは違いどうしても不便がつきまとう。しかし、その中にあっても古き良きものは時代と共存し、あらゆる工夫がなされ、昨今の景色にうまく溶け込んでいます。

僕はモノゴトは少し不便な方がいいと思う質です。というのも、やはり工夫が生まれるから。便利になるのはそのモノゴトの性質を、よく味わいうまく付き合えるようになってからがいいと思っているのです。多分、何かを取りこぼしたままは生きたくないという意固地な貪欲さから来ているのでしょう。数学の公式だってそうです。頭から教えられた公式では、当てはめてうまく答えが出たとしても、紙の上で頭の中で何が起きたのかさっぱりわかりません。できることなら、その公式が生まれるまでの方が気になるのです。それがわかればあらゆる応用が利くんじゃないかって思ってました。しかし、僕もシステムに乗って楽に生きましたが。(それにしても、公式がいつもあまりに綺麗で驚いてしまう。)

もちろん、次に行くために過去の尽力を最大限に活かして、新たなものを生み出して行かねばなりません。しかし、その数学の公式のように、殆どの発生、何よりそのものの意義みたいなものを僕らはウヤムヤにしていっているのかもしれません。

何も僕は、評論家めいて「世の中は便利になりすぎた」なんて言う気はありません。当然世界は前に進んでいくものです。しかし、今在るもの、今まで在ったもののことも決して忘れてはならない、と言うよりもその存在に気付く、それが大事なんじゃないかって思います。

いつか、世界の仕組みが、景色が、心が、かの氷河の意味を持って崩れ落ちぬように。

今年もちゃんと夏が来る。

koko Mänty (kissa)         成重松樹

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