真新しい地球

東京に雪が残る姿が当たり前みたいになっていたけれど、それも気づいてみたら消えていた。時というのは気がついた時には必ず過ぎていてるもので、そんな嘆きを言わなくてもよいように日々生きていきたい。世界をどうみたいか。
それが、これまでブログから遠のいていた反省声明です。

みなさま、こんにちは。お久しぶりです。

先日、無事に確定申告を終えました。この瞬間の喜びは何か一つの作品、もしくはプロジェクトを完遂させて得るそれに似ています。汗をかくといった意味での喜び。
そんな心地での税務署からの帰路、辺りはとても優しい夕暮れ直後の青に包まれていて、僕はようやくその日の一つ目のあんこを食べることができました。もちろんあんぱんにするか大福にするか非常に苦しんだわけなのですが、不動前駅前の神戸屋さんでよもぎあんぱん(新作)とつぶあんぱんを買いました。大(幸)福。

ところで、まだ僕がどんな形態のあんこを食べるか、あんぱんにするか、大福にするか悩んでいたその時、不意に飛び込んで来た子どもの声、「ママ、いつなぞなぞかってくれるの?」

-決して新しくないのに新鮮な響き。どこにだって漂っているもの。シンプルに斬新。それぞれがそれぞれの価値を震わせる、並びや組み合わせ。それは夫婦や、アート作品や、街にあふれるあらゆるレイヤー、コンビニの商品陳列だってそうなのかもしれない。言葉には強さがある。これはもともとの性質だろうから羨んでも仕様がない。だからこそ、期待をしてもいいような気がする。言葉を。それを使う僕たち自身を。

言葉とは不思議なものです。それだけで、励まされたり、傷つけたり、囚われたり、叶えたり、いろいろな力を持っているようです。妻が以前、「枕元にパンを」というような文章を綴っていたことがありました。これはどこかで女子高校生が話していたのだとかなんだとか。これも、決して新しい言葉というわけではないはずですが、非常に耳を心をくすぐるものがあります。数日前の朝、ベットの横の床に黄色い綿埃があって、僕は起き抜けにそれを目にし、「遂に妻は枕元ににパンを、、」と思ってしまったのです。このように、こんなにもシンプルな言葉が人間に新しい思考、体験、ファンタジーを与えてくれることもあるのです。

今、目の前にあるそのリモコンが、“◯◯さんが作ったリモコン”ということになれば、急にそのリモコンの存在感が変わってしまうと思います。強度は下がるかもしれませんが、これは“誰か”が作ったリモコンなんだ、鍋なんだ、パンなんだ、、、そう日々感じるだけで随分世の中は豊かな感情で満たされそうです。世界をどう捉えるか、もしくは、“どう捉えたいか”、見るのか、“見たい”のか。見るという筋肉質な強さも頼もしいのですが、僕はなんだか“見たい”という健やかな欲求も心地よいものを感じます。

いま、気持ちを切り替えて、「真新しい地球」。

※臨時休業のお知らせ

3月20日(木)は第3木曜日ですが、通常営業とさせていただきます。また、17日(月)〜19日(水)は誠に勝手ながらお休みとさせていただきますので、何卒よろしくお願いいたします。

koko Mänty (kissa) ~森へ~     成重 松樹

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