蝉がせっせと言っているんだよ。

7月ももうすぐ終わり。午前7:30、真夏のこの時間はすでにおひさまの光は青もオレンジも失い、限りなく透明になっている。真っ白の光を浴びた樹々はアスファルトやコンクリートの壁に影を落とし、風がそれを心地よく揺らす。

ジリジリと陽の当たる方の腕の表面は焦げつきそうで、その裏側の皮膚感覚はまだ朝の気配を感じている。それは体がエアコンの効いた部屋の室温を忘れずに少し纏っているからかもしれない。僕は黄色いパナソニックのロードバイクに跨って、前カゴに乗せたビーンバックが舗装が不揃いの側道のためにぴょこぴょこと跳ねるのを気にしながら、朝の目覚めた光を見るともなくみている。漕ぐことに集中しないと危ないのだけど、どうしてもその白さに目が眩んでしまう。朝はもう、いない。でも、この、写真も撮れそうもないおひさまの時間がけっこう好きだ。ただ自分の目で、この広い世界を見つめることができるから。写真を撮ることを諦めている世界。諦めて良い世界。この世界を“自分の目で”見ることができる。

『光は認識によってもたらされる。そして、愛はこの光の熱である。』

簡単な言葉なのに、なんだか難しい。これはシュタイナーの言葉。写真に写っているのは光だけど、僕にそれを撮りたいと思わせたものは愛ということなのだろうか。その行為が熱なのだろうか。愛っていうのは、家族愛とか平和とかそういうのもそうなんだけど、遠心力とか雨粒一つにも見過ごせない愛があるというか、日常の地続きの確かな愛のような気がしている。前の人がいて、先の人がいて、今僕がここにいる。唯一確かなことと信じられるもの、今ここ。信じられる、それこそが愛の証左なのかもしれないと思ったのは、霧ヶ丘に鳴く蝉です。蝉だよ。蝉なの?蝉だよ。蝉がせっせと言っているんだよ。じーじーじー、ミーンミーンミーンと、ね、ピース。

koko Mänty (kissa) 成重松樹 Matsuki NARISHIGE

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